第1章 ワンオペ育児
夜10時。佑奈は、チャリティディナーの生中継を流していたテレビを消した。
食卓には見た目だけは美しい料理が並んでいるのに、湯気はとっくに消えている。
ついさっきのチャリティディナーで――帝京のセレブ界に君臨する有川グループ社長・有川紘樹が、破格の金額で神級ジュエリー『星河の夢』を競り落とし、その場で当代人気デザイナー佐伯薫の首に、自らの手でかけたのだ。
佐伯薫は瞳を潤ませ、胸に手を当てて深々と頭を下げる。
「一番の親友、紘樹に感謝します。それから、この作品のデザインを手がけたユナ先生にも。先生はもう表舞台から退かれていますけど……この『星河の夢』は、私の人生で最高の贈り物です」
佑奈はその光景を、笑っているのか笑っていないのか分からない顔で見つめていた。
有川紘樹は知らない。佐伯薫も知らない。
姿を消したはずのジュエリー界のデザインマスター――「ユナ」が、今この瞬間、テレビの前に座っていることを。
そして、自分の夫が、かつて自分が筆を置く原因になった渾身の一作を、別の女の首にかけていることを。
さらに滑稽なのは――。
難産の末に大出血し、命を削って産んだ娘の有川菜央が、佐伯薫デザインのドレスを着て花束を抱え、ステージへ駆け上がったことだ。
菜央は背伸びして、佐伯薫の頬にちゅっとキスをする。
「薫おばさん、すっごくきれい! わたしの中の綺麗なママ!」
子どもの無邪気さは、いちばん人を切り裂く。
これが、彼女が仕事を捨てて家庭に戻った末に手に入れた結末だった。
今日は本来、有川紘樹と結婚して6周年の記念日。
その日のために、半月も前から準備してきた。娘に贈るための手作りヘアピンも作った。菜央がずっと欲しがっていた、あのキャラクターのものを。
なのに――。
夫は、別の女とスポットライトを浴びている。
娘は、舞台の上で別の女を「ママ」と呼ぶ。
佑奈は俯き、胸の奥がじわじわと凍っていくのを感じた。
突然、思う。――この6年は、最初から最後まで笑い話だったのだと。
賢く尽くせば、紘樹の石みたいな心もいつか温まると思っていた。
娘を全力で愛せば、たとえ紘樹に好かれなくても、菜央だけは自分の味方になってくれると思っていた。
現実は容赦なく頬を張った。
有川紘樹にとって自分は、有川家という大樹に寄りかかって生きる、存在感のない専業主婦。
有川菜央にとって自分は、叱ってばかりの実の母より、優しくて気前よくプレゼントをくれる佐伯薫のほうがずっと上。
泣くと思った。
けれど頬に触れても、何も濡れていない。
失望が限界まで積もると、涙すら枯れるのだと知った。
佑奈は立ち上がり、食卓の料理をすべてゴミ箱へ捨てた。ヘアピンも一緒に放り込む。
欲しがる人がいないなら、捨てればいい。
三十分後。玄関で指紋ロックが解錠される電子音がした。
扉が開き、有川紘樹が眠り込んだ有川菜央を片腕で抱いて入ってくる。
ソファに座る佑奈を見るなり、男の眉がわずかに寄った。今日が何の日か、完全に忘れている顔。
「まだ寝てないのか?」
靴を替えながら、声を低くする。
佑奈は答えず、ただ静かに見つめた。
10年愛した男。
かつて溺れるほど好きだったその目には、いま苛立ちしか残っていない。
紘樹は菜央を出迎えた使用人に渡し、ネクタイを緩めながら階段へ向かった。佑奈の横を通っても、足を止めない。
「菜央は今日は疲れてる。薫が限定のブラインドボックスをくれて、あの子、すごく喜んでた。明日、またくだらないことで叱るなよ」
その言葉が耳に入った瞬間、佑奈の中で何かがすっぱり切れた。
彼女がしつけをしていたのは、薫の甘やかしで育ったわがままを正したかったからだ。
だが紘樹の目には、それが「厳しくてつまらない」だけに映る。
「有川紘樹」
不意に、佑奈が口を開いた。声は驚くほど静かだった。
紘樹が足を止め、振り返る。
「何だ?」
佑奈は顔を上げ、冷たく傲慢な眉眼をまっすぐ射抜く。
「離婚しましょう」
空気が凍りついた。
紘樹は目を細め、瞳に嘲りを浮かべる。驚きはない。むしろ「やっぱりな」という色。
「佑奈、今日は誰に何をされた? それとも暇すぎて、こういう手で俺の気を引くしかないのか?」
彼にとって、佑奈が自分なしで生きていけるはずがない。
仕事もなく、友達もなく、有川家に寄りかかってセレブごっこをするだけの女。
離婚など、冗談にもならない。
佑奈は、その当然のような表情を見て、自分がどれほど盲目だったかを思い知った。
あの誘拐事件――彼を助けるため半身を投げ出し、右手の神経を損傷してデザインを完全にやめた。重傷で、病院で三日間も昏睡した。
目覚めたとき紘樹が礼を尽くしていた相手は、彼のベッド脇にいた佐伯薫だった。彼は彼女を命の恩人だと信じ込んだ。
説明した。
だが紘樹は信じず、功績を横取りする腹黒い女だと決めつけた。
その瞬間から、佑奈は有川家に取り入ろうとする虚栄の女。両家の許嫁と有川爺さんの意向がなければ、そもそも結婚などしなかった、と。
「冗談じゃないわ」
佑奈の声には、一切の感情がない。
「菜央はあなたに。財産もいらない。署名して」
紘樹がようやく、彼女を正面から見た。
地味な部屋着、すっぴん。それでも骨の奥の清冽さは隠れない。
ただ、いつも愛で満ちていた瞳は、いまや死んだ水のようだった。
制御不能な感覚が、紘樹の胸を妙にざらつかせる。
男は鼻で笑い、スーツの内ポケットからカードを取り出して、佑奈の前のテーブルへ放り投げた。
「生中継見たんだろ。あの『星河の夢』が欲しかったのか? 佑奈、いい加減にしろ。欲が深すぎる」
見下ろす視線は冷たい。
「薫は有名デザイナーだ。あのネックレスは、彼女がつけてこそ価値がある。お前がつけてどうする。宝の持ち腐れだろ」
カードを指で弾く。
「これは上限なしだ。補償だと思え。明日、デパートで服でも買え。みすぼらしい格好で有川家の顔を潰すな」
それだけ言い捨て、紘樹は二度と振り返らずに階段を上った。
宝の持ち腐れ。
――それは、ユナの作品だ。
この世界で、それを身につける資格があるのは、自分だけなのに。
佑奈はカードを見ても、目に波一つ立てなかった。
帝京のセレブ界は知っている。有川社長は妻に気前がいい、と。
だが誰が知っているだろう。これは気前などではなく、口止め料だ。
次の瞬間、佑奈はハサミを手に取った。
「カチャン」
カードは真っ二つに割れ、ゴミ箱へ落ちる。
佑奈は二階へ向かい、離婚協議書を取りに行こうとした。
子ども部屋の前を通りかかったとき、扉が少しだけ開いていた。
有川菜央がキッズスマートウォッチを抱え、布団の中でこそこそ音声メッセージを送っている。
「薫おばさん、パパね、今日はわたしを怒らなかったよ。あのボックス、かわいいって褒めた! 薫おばさんがほんとのママだったらよかったのに。あの女、野菜いっぱい食べろって言うだけ。だいきらい!」
佑奈は、扉の前で指をぎゅっと握った。
覚悟していたはずなのに、娘が自分を「あの女」と呼ぶのを耳で聞くと、胸の奥がずきりと痛む。
――もう、未練はない。
書斎へ行き、用意してあった離婚協議書を有川紘樹の机に置く。署名はすでに済ませてある。
有川紘樹が自分を、寄りかかって生きるだけの女だと言うなら――見せてやる。
有川紘樹を離れたとき、佑奈がいったい「何者」なのかを。
